南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

自己責任論が国家愛やアイデンティティに持ち込まれることについて

Nanjai2004-05-01
 イラクでの人質事件が一段落?して、メディアやブログを賑わわせている「自己責任」という言葉。そしてこの言葉は大抵、拉致被害者とその家族への非難に向けられています。そんな中で、なぜこれほどまで人質となった方々やその家族が嫌われるかということについて、書いているウェブログを拝見した。要点をずばり言えば、≪被害者とその家族は、国家愛や家族愛の精神が欠けており、これは日本の国際化教育に問題がある。≫というものだ。世界を愛するのは最低限のことだが、同時に政府や日本国民に対しても敬意を表せというのだ。
 この論者の精神だけは、大いに評価できる。国際化というのは、単に周りのものを見聞きして雑多の中で生きていくことでない。自分自身や日本国民としての自覚を土台にして、その上で経験を塗り重ねていくことが重要だ。だから私は躊躇うことなく、愛国教育の充実を、たとえ教育介入の非難あろうとも推し進める必要があるとは思っている。自分を大切にして、初めて他人を思いやることができる、これは揺るぎない私の精神だ。
 しかし、その発展する先には問題がある。この精神は単に拉致被害者やその家族への刃となるに過ぎないのか。自分たちは当たり前のように持っていて、彼らだけが持ち得ないもののように、評する論者多数。こういう人間こそ怪しい。案外国内にいて安全だから、危険なところへ行って国に迷惑をかけた奴等に対する傲慢が言えるだけかも知れない。
 少し別の話をしてみよう。私は最近、台湾論を調査している。『新ゴーマニズム宣言台湾論』という書籍(マンガ)がある。これの戦争論などは読んだ方も多いだろうが、太平洋戦争批評だとか、台湾論なら大陸帰属問題批評だという要旨を読み取っている方々が非常に多い。が、この2作品に共通するのは日本人としてのアイデンティティであり、戦争や台湾はそれを伝えるツールに過ぎない。昨今では陳総統再選を通じて、日本国民の多くが中国の台湾強圧を非難し台湾の肩を持っていた。それはただ中国の経済発展が恐いからではないか。中国に対してもテロリストに対しても、日本国民としての自覚を確立し、恐怖による攻撃ではない国際化を日本国民全員に植え付ける必要がある。結:自己責任やアイデンティティの有無は、在日国民にも問われるべき。【2004/04/27/PM】