南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

憲法の最終講義にて

Nanjai2005-01-18
 スーパーフライデーの一科目であった「憲法」の講義が最終日を迎え、名大からお越しの非常勤講師が振るう憲法に関するどこか偏った熱弁より、余談のほうがずっと耳を傾けやすい、と感じるようになっていた筆者である。正規の講義はすでに終わっていて、補講期間も含めた最終講義である。実は冬休み期間中を含めて、この補講日までにレポート課題が出ていたのだが、講義開始30分前まで全く手をつけていなかったため、試験日の提出とする。補講終了時までには書けない事もないが、講義を疎かにするわけには行くまい。わずか15点の下駄履きレポート提出より、評価の7割を占める期末試験のほうが重要だ。先学期などは、3割分のレポート未提出でも試験を真剣に取り組んだ結果、最低ランクでパスした経緯がある。
 ともあれ、最終講義の内容は、これこそ試験日までにまとめてやりたいと思うような、極めて興味深いものであった。というのは、筆者が高校三年のこの時期、大学受験も忙しいさなかに現代社会科目のプレゼンテーションで扱ったテーマに、大変接近していたのである。「新しい歴史教科書を作る会」の問題。歴史の負の側面を隠し将来を担う学生に教えない教科書、神話や偏った戦争評価で平和志向を妨げる教科書などと揶揄されがちである。南京大虐殺の死傷者数や事件の有無。中国側の提示する死傷者数には、大きいという意味の6や8が多いので、嘘だと主張するものも在る。
 アメリカでも、広島・長崎への原爆投下に対して、真珠湾攻撃への報復や戦争終結を早め多くの人々や兵士を救ったとする神話正当化論が一般化しており、スミソニアン博物館でのエノラゲイ公開に伴う、原爆被害実態を展示した企画に猛反発が浴びせられていた。そしてなんだ、アメリカではこうした気運の中で、真実や詳細を知る権利を主張している方々もいるのに、日本での新しい動きといえば悪い面の隠匿行為だと言いたいらしい。
 違うのですよ、老師。悪の隠匿などではなく、悪(とされている)部分を再認識し直す。むしろこれまでの歴史教育は、戦中期の善悪諸共焼却炉に葬ってしまったが故に、筋のない国家ができてしまったのである。戦勝国の史観によって作られた平和主義が、決して実にならない事は、戦後史の中で充分理解できる。(続)
結:第一.反省とは、過ちの認識のみならず、功の認識をも含む。【2005/01/18/PM】