南蛇井総本気

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

歴史を直視せよ、と

韓国は言いました。歴史という言葉を、20世紀前半にだけ限定して考えさせて頂くと、嘗ての某かの言葉を借りて「日本は良いこともしたし悪いこともした」と返答することができます。それが本当の直視ですので、改めてご考慮願います。
嫌韓流に留まらない、嫌隣流の匂いがする日本だが、決してそういう趣旨で言っているのではない。勿論「嫌」ぐらい熱くなって中韓隣国を啓発したほうが、彼らに独自さを生み出させる動力になる、と考えてはいる。愛国の力量は、軍国、戦争へ導かれるのではなく、双方の競争力、自立度を高めるのに役立つべきなのだ。だから中国はその面で言えば、もっと熱くならないといけない。まだ足りないくらいなのだ。ところが、日本人は熱くなる中国が怖いから、あんまり面と向かって言わないで、人件費の安い今を利用して荒稼ぎをしている。日本の製品はまだまだ高性能、高品質だから、向こうも思い切ったボイコットができない。国から教えこまれた愛国の心血をどこへ注ぎ込んだら良いのか、まだ彼らには自覚ができていないのだ。お互い結構バカで勿体無いことをしている。
我らが隣国に求めるのは、対等の経済力および軍事力を備えた大国ではない。何故なら、それは日本が各面で負けていくからでなく、日本のコピーに過ぎないからだ。真似をされることは誇らしくもあり、また誤った部分をも受け継がれていくもどかしさもある。日本は戦後補償の名のもとに、多額の資金援助をしたが、その使われ道には口出しをしなかった。戦争をして技術を磨き、戦争特需で儲け、工業力でトップを走った日本。それを尊敬し信じてコピーするなら、戦争のできる国に仕上がるのは当然である。現代にその理想像は通用しない。日本がやってきたから俺もやる、ではなく、日本のやらなかった道を試みる、に転ずる熱さが今求められている。様々なバッシングも避けられないだろうが、これも一種の日本に対する敬意であり、過去を直視した新理念である。
歴史を直視する、というのは事実(史実)と解釈(評価)を分離させる、意味だと考える。歴史教育にはどうしても感情的な評価・解釈が加わって、歴史教訓になりがちである。そういうことはさておき、まず事実・事象として捉える。何があったか、なかったか。先代の人類が積み重ねてきたことを、勝手に現代の良い様に決め付けてはいけない。先月安阳の殷墟を見学したときに、説明書きにおいて、生贄と祭礼の政治を野蛮で残虐な文化と評するこの一文は不要である。日本は加害国且つ被害国であるとされ、「過去」について多様な捉え方があって当然である。それを他国によって加害国であることを自覚せよなどと、偏狭な歴史観を強要されるのは心外である。むしろ、加害国、被害国のいずれでもないという主体的な歴史観を、両国で共有したいものである。
ついでに竹島について。竹島という領土そのものに関して、あえて抗議をするつもりはない。既に再三述べているように、小さなことに拘るような荒んだ精神こそが、北海道、本州、四国、九州4島の大切さ、基礎の重みを忘れ去らせている。今手元にある土地を真剣に守り抜くことが愛国につながるはずだ。だから北方領土の返還と同様に、弱く発言することにした。けれども、最近の動きは許せん。今さらのような適当な米国の裁量で、竹島は韓国領であると宣言した。戦後のサンフランシスコ講和条約で、アメリカ自らが草案上で島々の領有境界を曖昧に策定したのである。あのとき米国の独断であれ、明確に線が引かれていたなら、我々も今日まで納得したであろう。それは境界線が国際的な条約や法律に基づくため、我々がそれに従って解釈をするからである。いずれかが侵攻したとしても、規定によって罰することができるからである。ところが曖昧なまま半世紀を経て、今何の根拠もなくアメリカがあれは韓国でいいよ、とのたまったところで我々は聞きもしない。国連の事務局長を輩出しながら、国際的な条約・規定に基づいた領土解釈ができない国家を許すことはできない。あの小島そのものはともかく、この点に関しては日本は声を上げる必要がある。