南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

南沙諸島紛争の原点と信託統治―春学期末レポート1章1節

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 一章ごとに進めようか迷ったが、本文だけで1ページを超えるので分割した。尤も同学のレポートには、章節分割や段落、句読点が存在しないものが多く、大変解読に苦労した。
 第1章では、サンフランシスコ講和条約の成立過程を歴史的観点から大枠でまとめ(1節)、南沙諸島の処理および条約での起草・条文化における各国の戦略交錯を分析(2節)する。
《まず、サンフランシスコ平和条約の成立過程と背景をまとめ、第二次世界大戦(アジアでは太平洋戦争)終結後の東・東南アジアがどのように秩序づけられたかを検証する。
  1947年3月、米国国防省作業班は、日本の軍国主義復活阻止を基本方針とする最初の対日平和条約草案を作成し、同年7月極東委員会を構成する10カ国(英・ソ・中・仏・加・豪・蘭・ニュージーランド・インド・およびフィリピン)に対日講話予備会議を提唱した。その後、米ソ両陣営の対立による冷戦の進展を反映して1947〜50年には、総司令部(GHQ)は反共政策を推進しながら、日本の復興を積極的に援助する方針に転換した。そして朝鮮戦争の勃発(1950年)以来、米国は日本を独立させた上で日米友好関係を確立する方針をとるようになり、対日平和条約の早期締結を決意し、各国と折衝して平和条約の草案をまとめた。連合国の中では、米国とソ連との間に深刻な意見の食い違いがあったばかりか、アジア諸国の間には賠償などにつき強硬な主張が多くあった。
 アジアにおける冷戦は、日本撤退後の旧植民地での独立運動に超大国の勢力争いと干渉が入り込んだ。サンフランシスコ平和条約は、アジアにおけるヤルタ体制であるといえる。》
 字数に余裕があるため、全文記載とした。成立過程とは言葉ばかりで、かなり資料不足であったのと、南沙諸島問題に重点を置く傾向にあったため分量をとらなかった。これも背景説明と同様、報告型に整えねばならない。兎も角、質は別として、重要な点は、最後の段落にある。サンフランシスコ平和条約は、第二次大戦戦後処理を表向きとしているが、実際は竹島問題でも触れたが、当時垣間見え始めた冷戦初期段階での米国の戦略的政策がふんだんに見られる。つまり、構成 10カ国も形だけで、戦争によって直接的被害をこうむらず、戦後の世界を仕切ることが可能な国家のための足場造りに他ならない。次節では、この点を具体的に見ていくことになる。【2005/11/16/PM】