南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

南沙諸島紛争の原点と信託統治―春学期末レポート1章2節

f:id:Nanjai:20131215204320g:plain
 本節の原文は約1ページ半なので、要約せねばならない。まず、全容を捉えると、前段に戦前および終戦直後の南沙諸島動向と条約起草の背景についてまとめ、後段でアメリカの草案検討文書を段階的に列記し、その中で委譲先国家との戦略的国際関係を分析する。
 《太平洋戦争時、日本は東南アジア進出に伴い、「新南群島」として南沙諸島領有を宣言した。しかし、この地域では既に戦前から、フランスと中国の領土係争が存在しており、日本がどこの国からこれらの島を奪ったのか、不明瞭であった。》戦後、東南アジアでは独立が相次ぐが、その運動は共産主義指導によった為、次第に冷戦の様相を帯びていく。この中で、独立する各国が、境界不明の南海諸島の領有化を宣言し、中国、フランス、フィリピンが領土係争に入っていった。
 そうした民族主義独立運動とアジアにおける冷戦の中で生まれた、新しい紛争の勃発を背景にして、サンフランシスコ講和条約の草案が検討された。大戦中の1943年には、新南群島の日本領有を「重大な脅威」とし、中、仏、フィリピンをその移譲先として挙げている。また、同じ戦前のヤルタ会議前(1944)に作成された文書では、「戦後、群島の戦略的・経済的価値は無く、どの移譲先に渡っても問題ない」と示される。そして同文書で、国際機関による委任統治という可能性にも言及されていた。
 しかし、《戦後、1946年作成の「旧日本支配下の委任統治及び諸離小島の信託統治及び他の処理方法に関する方針」では、帰属先決定や国際管理に関する試案はなく、南沙諸島についてのみ、「日本が主張した全ての権利及び権原は放棄されるべき」とされ、信託統治下に置かない地域に分類されていた。》これは、国際機関の管轄下に処理する場合、紛争当事国の承認が必要となるが、仏の抵抗が予想されたためであった。英米は、初期草案にこそ南海諸島の日本放棄を示したものの、1950年以降の草案や七原則からは処理規定を消し、全く戦略的価値を鑑みなかった。一方でフランスは、西沙諸島のベトナム委譲後、南沙諸島自国領有を主張していたため、処理規定項の修正を要請した。が、いずれの諸島も共産化の危険性のある国家に委譲できないというアメリカの戦略と、フランス一国の差別的領有化は認めがたいとする見解から、明確な帰属規定がなされぬまま条文化された。【2005/11/21/AM】