南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

告げ口をしつづけても理性は保たれるのか?


強制収容所人民学校の国語の授業(03:40)では生徒にひたすら告げ口を書かせ、その良し悪しを評価するという。
告げ口をするということは他人の悪いところを指摘することによって相対的に自分が正しいと認識するわけだ。けれど、告げ口をしなければ評価が下がったり罰せられたりもする筈だから、些細なことで他人を批判したり(生き残るために)ウソの内容を書いて級友をつるし上げたりすることも避けられないだろう。それらに対する良心の呵責が次第に薄れていって、理性は崩壊すると思う。他人の悪事を論いながら自分もまた正しくないことをしているという矛盾に気づきつつも、収容所で生きるためにはそれを続けるしかない。そのうち自分への懐疑は麻痺していって他人への不信感だけが告げ口のエネルギーとして残る。たしかに当局の思惑どおり当初は相互不信が養われるように見える。が、自分の行為を省みなくなった子供たちは批判されても骨身に感じなくなる。そもそも自分が正しいという善悪判断の基準が崩壊しているのだから、ただ機械的に告げ口を生産してその場を凌ぐようになり、相互不信は成立しなくなる。最終的に残るのは教官への恐怖心だけだ。理性を壊すってことは感情を持たない従順な労働者をつくるのには有効だが、相互監視は形骸化していくんじゃないかと思う。

先日こんなニュースを見つけた。
映画:“唯一”の脱北者が語る政治犯収容所 北朝鮮描く衝撃のドキュメンタリー−−きょう公開
このとき撮影した映像も含まれていることだろう。ぜひ一度観てみたい。