南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

歴史の前例

ゲリラ戦を展開すれば強国でも追い払いいつかは戦勝国になれる。なんかイラク戦争以来絶えない爆弾テロが、そんな理想像を追いかけているように見えて仕方ない。
ゲリラ軍が敵と見なす強国は大抵自由主義や民主主義の象徴であり、彼らの勝利の先には偏狭な独自社会の建設が目指されている。しかし、侵略を肯定はしないが侵略・占領者を追い払って造られた理想郷は人権弾圧や独裁、腐敗政治などに冒されているではないか。「アラブの春」は民衆の力で幾つかの国を自由民主主義に変えようとしたが、新しい流れに導ききれていない以上、侵略者に等しい。イラクの二の舞になる可能性があり、最近エジプトでその兆候を感じる。ゲリラの群雄割拠も偏狭思想集団の勝利も、結局治安の安定と国民の幸福をもたらさない。経済はそういう国の場合、政府主導の力量に拠るため一概に判断できない。
この点、ミャンマーは賢い。国民民主連盟という、万が一古い体制が崩壊しても政権を安定的に担いうる大きな勢力があり、強い旧態に対し反動や転覆を企てることなく協調しながら変革を一つ一つ実現していく。少数民族問題は膠着しているものの、この形の新しい流れは「侵略者」とは見なされずゲリラ軍も発生しないのではないか。
変革は必ずしも戦いではない。変革を振りかざすこと、戦いを挑むことが必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。自由・民主主義に抗っても、理想にそぐわない勢力を排除しても、ろくな社会は生まれず結果的に国民を幸福にしない。そんなことは東アジアで我々が歴史にしてきたのに、これだけグローバル化が進んでも前例の反省が地域間で共有されない、教訓が生かされないというのは何のためのグローバル化かと。災禍のウイルスを撒き散らすのがグローバル化の使命なのか。
いま、シリアが内戦状態を極め、この懸念に突入しようとしている。反政府軍は政権交代を担えるのか、ただ古い体制を倒して混乱させたいのか、きちんと見極めた上で支援する必要がある。