はじめに
今回の开封再訪は、予定の急変により滞在時間が大幅に短縮されたため、十分な視察と検証はできなかった。本来なら16日一日かけて市内各所を巡り、公交を幾路線も乗り潰して路線網の変容や市域拡張の現状を把握するところであるが、実際には17日午後郑州から帰って天津行きの列車に乗るまでの僅かな時間しか残されず要所を抑えるほかなかった。トータル一日に満たない視察時間の中で、最も特筆すべき鼓楼广场の大変化と、留学時からたゆまず研究している公交の変更点をまとめ、最後に开封名物ともいうべき夜市とその未来を脅かしつつある城管(城市管理行政執法局)の影について見解を述べたい。
鼓楼广场の再開発
これは16日午後、河南大学から客运西站へ移動する公交10路の車窓より目撃して驚嘆した。何を差し置いても、これだけは詳細を把握せねば、と17日午後の僅かな時間を利用して可能な限りつぶさに視察。ちなみに出国前の街景地图による予習で、鼓楼广场において一大工事が行われていることは確認していた。繁華街の中心である书店街との交差点が完全に封鎖され、わずかに残された通路を路線バスなどがギリギリ迂回するように通行する光景が写されていた。まるで杨家湖と包公湖を結ぶ水路にかかる橋「陆福桥」を建設中の大梁路(西门大街)を想起させるような、大掛かりな工事であった。その完成品を今回、目の当たりにする。
かつて公交を乗り降りする人民と往来する車でごった返し、夜ともなれば無数の屋台が犇めいていた広場に、突如巨大な城門が出現した。
あたかも市西部の大梁门が移設されたかのような凄まじい威圧感である。どうやらこれは、嘗てこの地に建っていた鼓楼の復元であるらしい。そう、ここには本来鼓楼なる建造物があったからこそ今日までそう呼ばれるのであり、何ら不思議な現象ではない。在学中、先輩から「以前はまさに鼓楼があったらしいよ」とは聞いていた。検索すると資料の古写真には確かにこれと相似する建造物がそびえている。筆者はてっきり現在の広場の南面に時計塔みたいな建物でもあったのか、と思い込んでいたが、ずっとど真ん中に鎮座していたのね。
土台の下は車両が十分に往来できる幅の通道があり、公交もくぐる。画像のように、自転車や歩行者は楼の外縁を通行する。これは西安の钟楼にも匹敵する規模である。昔も今も鼓楼は开封の中心であることに変わりはないが、このような巨大シンボルが創建(若しくは復活)したことで一段と市民の愛着が深まることも期待される。
また、広場を取り巻く商業施設も古風な趣きの外観に造り替えられている。
1.
2.
それではここで、我がコレクションより、数年来の鼓楼广场の変遷を見比べていただこう。
たとえば、09年の2枚目の画像は1.の地点とほぼ同一である。また2.に写る「KFCの入居している商業施設」を目印に各年を見比べてみると、変化の激しさが垣間見えるかもしれない。
地上に目を瞠ればこそ、足下もまた驚きである。なんと、开封に地下街が誕生していた!!
元来黄河の氾濫による土砂などが堆積して古都の遺構が埋もれているような开封市において、その地下に構造物をつくることなどとても不可能なことだと考えていた。もともと地下鉄を開業させるほど市域は広くなく人民の移動も大きくはない都市であるが、もし郑州からの延伸などで建設するに至ったとしても土壌の性質から相当な難工事になるものと思われた。そんな憶測は一転、短い区間ながら繁華街が見事に成立していたのである。区間は、解放路から中山路までの東西約800m、ちょうど鼓楼街と寺后街の全区間にあたる。2013年12月に開業したそうである。
東端の学院门交差点付近から下りてみる。
通路の幅はさして広くなく、日本全国的にも地下街が発達していることで有名な名古屋の市民から見れば、千種や今池ぐらいの小物に過ぎない。しかし、开封市にとっては画期的な街づくり施策である。なぜなら、これまで地上における東西の繁華街は人も車もひしめき合う大通りであり、街路に面した店をブラブラ歩きながら覗いたり立ち寄ったりという余裕(逛街)がほとんどなかった。むしろ往来するものに揉まれ押し流され、ただただ通り過ぎてしまう場合のほうが多かった。南北に関しては、早くから歩行者天国とされていた马道街や、2012年の時点で歩行街にリニューアルされた书店街が定着しつつあった。しかし、主要道路の一部でもある鼓楼街は車両の通行をシャットアウトできず、狭い歩道などに買い物客や観光客が押しやられる有様が続いていたのだ。近年、観光夜市も開かれる鼓楼广场が重点的観光開発地区に指定され、鼓楼の再建に代表される大幅改造が行われたことで、歩きやすい街路への改善にも着手したのだろう。単に移動を目的とするものは地上を、気ままに買い物や街歩きを楽しみたいものは地下へ誘導することで、より快適で見た目もよい繁華街が形成される。旅行者だけでなく地元市民にとっても魅力ある中心街が造られようとしている。たった一筋の地下街がもたらした新しい鼓楼广场のカタチに賛辞を送りたい。
今回(17日)は公交18路で书店街北口に降り立ったので、ついでに书店街の現在も覗いておこう。
極彩色に彩られた北門。
2012年のと見比べてほしい。
前回撮りそこねた、河道街口の橋。
开封公交の刷新
まず特筆すべきは、二階建てバスの導入である。16日、许昌にK先輩を訪ねた折、同市の公交で二階建てバスが運行していることに仰天したところ、开封でも採用されていることを知らされた。さっそく17日に戻って、事実確認。
火车站广场站に停車中の观光1路。観光都市の开封で遂に、旅游专线が登場した!! 古都开封の象徴ともいうべき清明上河図(宋代の東京開封府を描いた名画)がラッピングされた、美しい外観の車両である。市内に見所が少なく、二階建てバスを一般路線で活用している许昌も、その経済力には唸らされるものがある。が、以前旅行した世界的に有名な古都西安と同じく、観光ルート専用線を整備して二階建てバスを採用した开封も大いに評価すべきだ。従来は公交1路(幹線)や20路(マイクロバス)が、龙亭エリア*1や延庆观などを結び旅游专线の役割を担ってはいたが、旅客にほとんど周知されていなかった。今回乗車はしなかったが、経路を調べると、火车站から中山路を真っ直ぐ北上し龙亭景点群へ至る形となっている。相国寺や包公祠、铁塔すらカバーしないので、実態はまだ上述2路線のほうが有効だ。今後はルート設計の改善が望まれる。
(2017年3月の改定で、铁塔公园を経由し仁和屯まで延伸された。また、龙亭エリアと城际铁路宋城路站を結び包公祠などを通る環状路線の「观光2路」も開業した模様。)
2009年の報告書で、「20番台のマイクロバス路線の新車に、『開封公交』のデザイン文字が入るようになった」と指摘している。今回、33路で撮影に成功した。
運転席下のは従来のロゴマーク。
かつての大型バス車両は他省からの中古車も混在していたが、少し統一性が出てきたようにも感じられる。個人研究で分析した分公司(営業所)ごとのラインカラーはもはや面影すら残っていないが、これからはタクシー会社のように「开封公交カラー」で揃ったバスが往来する光景を期待したい。
城管と夜市
城管、城市管理执法局すなわち都市の諸問題を監視・管理する行政機関である。かつて街中で見かける城管といえば、トラックなどでのんびりと人溜まりの傍を巡回するだけの穏やかな存在だった。それが近年、警察以上に市民生活を威圧する組織となってきている。城管の横暴な取り締まりぶりは、日本のメディアでもしばしば報道されている。たとえば、禁止区域で営業している屋台を数人で囲み、妨害したり商品をひっくり返したり。強制執行とはいえ、目に余るような行為が数多く見受けられる。こうした取り締まりのせいで、露天商もしだいに廃業したり営業を控えるようになってきているようなのだ。
15日夕刻、西站から河南大学へ戻る10路バスの車窓より、西司广场にたつ夜市の各店の電飾が概ね統一されていることに気づいた。そのまま通りがかった鼓楼广场でも、屋台の電飾は決まった形をしていた。どうやら日本でいう保健所のような公的機関で認可された屋台しか営業できないしくみになっているようだ。そして、东京大夜市はこの夜ひらかれなかった。後日许昌にK先輩を訪ねて、城管による取り締まりを避け曜日を決めて営業していることを知った。许昌でも実際に、夜宴を楽しむ我々の近くを隊列組んだ城管がさり気なく通過するのを目撃している。城管の活動は、確実に市民生活へ暗い影を落としている。規制のみならず、教育を通しても新しい街の在り方を浸透させようとしている。学生たちによると、屋台で食べ物を購入することは学生食堂を利用するよりも不衛生で、値段交渉も煩わしく不便である、という考え方が定着しつつあるようだ。こうして、街から乱雑で不浄なものを排除し、管理しやすい都市環境を整えようとしていることがうかがえる。
开封は全国的にも見ても屋台(小摊儿)の営業が活発で、朝から晩まで食堂に入らなくても飲食に困らない珍しい都市である。この違いは、他の都市へ旅行してみると顕著に感じられる。とくに大多数の店舗が休業する春節や、24時間列車が発着する鉄道駅の周囲では、いつでも食事のできる屋台がどれほど重宝することか。中国の屋台の多くは、たこ焼きやみたらしのようなおやつではない。1個でお腹がいっぱいになるような饼や麺類から弁当、肉や野菜など日々の食材まで多様である。また、开封の夜市は全国に知れわたる名物である。最大規模の鼓楼广场には他市・他省から多くの観光客が集まる*2。私も知人らと幾度か行ったことがあり、开封名吃灌汤小笼包子を食べたり弾き流しの歌声を聴いたりした。様々な名物料理が集結していて、とても食べ尽くせるものではない。雑貨売り場の相国寺商场や书店街ともセットになっていて、夜遅くまで買い物を楽しむことができる。东京大夜市こそ最も身近であったが、ほかにも市内で中小サイズの夜市を10か所以上は知っている。2種類の白酒を飲んで初めて急性アル中になった明伦街の夜市や、兔肉を試した开封大学近くの夜市(武夷路)、寒い夜に馄饨を啜った汴京饭店前の屋台群などは思い出深い。私自身のみならず开封市民にとっても、いや开封が开封たるために屋台はなくてはならないものである。
最後に見た东京大夜市の風景(2012年)
屋台を街に残す最大のメリット、それは人民のコミュニケーションである。人づきあいがあまり得意ではない私が論ずるのも何だけれど、逆に言えば留学生活で屋台から物を買う機会を通して、苦手意識が克服された面もある。たしかに現代社会では超市(スーパーマーケット)や便利店(コンビニ)といった、売り手と買い手の対話をあまり必要としない便利な店舗や食堂が充実している。値段交渉も要らず、明示された金額を支払い安全な商品やサービスを受け取る。高額を吹っ掛けられることも、ハエのたかる生鮮食品を買わされることもない。それはそれで日本人からしてみればごく当たり前のことで、先進社会を追求する中国人が志向するのも何ら不思議ではない。
しかし、それが本当に幸福だろうか。店主(老板)と客との会話。常連客への割引(东京大夜市「伟伟」の老板は、毎度のようにまけてくれた)。青空(夜空)の下で、顔と顔の見える付き合いだからこそ、自然と顔なじみになれる。都市から胡同が次々と撤去され、人民の多くが団地に住むようになった今、井戸端会議できる場所が街中に求められるはずだ。その役割を路上に点在する屋台たちが担うことになる。もしそれらまでも排除した場合、中国人民は完全に個人個人で生きてゆくことになる。生じる社会病理は深刻である。また日本のように少子高齢化社会が急激に進む中国では、街で交流の場を失った高齢者による孤独死が急増するだろう。街で付き合わない、触れ合わない社会ほどつまらなく、将来的に危険であるということを城管も意識すべきである。
この幸福逆行政策は、前回の三輪タクシー全廃に続くものともいえる。かつて「三轮城」とも呼ばれ开封市街の名物ともいうべき交通アイテムであった三輪タクシー。これぞまさに、开封人のコミュニケーションの賜物である。輪タクも屋台も开封人民が中国内外に誇るべき「街の顔」であり、決して観光向けなどではなく生活の営みによって日々積み重ねられてきた密接な人づきあいの証である。頻発する交通渋滞や事故を理由に行われた輪タクの一斉廃業が、城管による露店取り締まりを一気に加速させたように思えなくもない。
その他の変化箇所とまとめ
その他、気の付いた変容を列記。
火车站广场で駅舎の前に広がっていた広大な立ち入り禁止区域が、一般車の駐車場に整備されていた。かつては、ゴールデンウィークや春節の混雑期ですら列車待ちの人々がその中で屯することもなく、また駅舎をバックに記念撮影する人も疎らだった。腰の高さくらいの柵でぐるりと囲まれ、タクシーや市バスでさえもその縁に細々と待機する、勿体ない土地の使われ方をしていた。個人的にはてっきり、軍や政府関係者専用あるいは緊急車両の活動スペースとして常日頃から場所を割いてあるのか、などと考えていたものだ。元来から駐車場として活用することを前提としながら、开封におけるモータリゼーションの進行が想定以上に遅かっただけなのだろうか。車社会になって、ようやく広場が有効利用されている風に見えるようになった。でも本来の駅前広場としては、送迎などの車より利用する人民の集まっていた方が活気溢れるんだけどな。
大梁路と黄河大街の交差点(西郊乡)から北西方向に伸びていた万胜路が交差点から外され、五叉路から十字路に変わった。逆に、大梁路を少し西へ行った航天大酒店の脇から万胜路へ道が造られた。趣味で制作している架空鉄道「KaifengLRT」の3号線で、この黄河大街と万胜路の道筋を活用していたので一部専用軌道へ変更する必要が生じる。万胜路と大梁路に挟まれた鋭角の土地は以前から公園だったので、これの拡張などで五叉路の痕跡がすっかり消されてしまうとしたら少し寂しい。というのも、市内を走る道路のうち縦横でない不規則な筋の中には、古都へ流入する古い街道の名残であるものも含まれる。この万胜路も自由路などから続く古道の一部と考えられるからだ。
以前の姿が想像できないほど綺麗に舗装された、西南城坡路。
左側に写るのは、改修された城壁である。
たとえ世界に誇れる観光都市を目指すとはいえ、外見にこだわって市民生活を圧迫したり、長年の営みで築き上げてきたものを失わせたりするような政策は望ましくない。巨大なハコモノを造ることなら、金正日にだってできる。問題はハードではなくてソフト面、つまり観光と居住の調和である。これまでは胡同の中に史跡が隠れていたりして、居住空間の中に観光が混在しながら育まれていた。今の开封は、観光だけをピックアップして居住を蔑ろにしながら大改造されようとしている。従来のカタチをも見直しながら、より开封らしい観光都市として発展してゆく道は模索されないものか、とやきもきしながら思う次第である。