南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

私死すとも、公は死なず

Nanjai2004-11-10
 もう1ヶ月近くも前だが、帰宅途中の駅で「愛知地域労働組合(略称:きずな)」のチラシを受け取った。《「きずな」は、誰でも、一人でも加入できる労働組合です。中小企業やパート・臨時、派遣などで働く人たちの労働組合です。》とある。これまで、企業と名のつくものはともかく、派遣社員(フリーターが多い)、パートタイマーなどは、その職場における雇用と権利を持ち得なかった。それは要するに、集団の一員ではなく、その場限りの就労であるから、給与を支払う側と働く側との間に生まれる信頼と言うものが薄いからである。働く側の「個」が優先され、共同体としての意識が大きくないためである。この「きずな共済」もひとつの共同体であるから、たとい共済の利益が伴ったとしても、加入を希望しないかもしれない。それも一つの個としての自由であろう。
 現在ファルージャでは、ザルカウィ容疑者率いる武装勢力の掃討作戦として、アメリカ軍による大規模な軍事行動が行われている。しばらくイラク戦争に言及してこなかったが、香田証生青年が武装グループに拘束され殺傷された事件から、2週間ほど経過した。首を切り、頭部を身体の上に乗せ、星条旗で覆うという、大多数の目で見れば非道で皮肉な行為に、日本国民の多くは一段と政府非難の意識を強めたに違いない。しかし、香田青年独りの死は、例えアメリカ軍によって殺害されたイラク人一般市民千人の霊魂に値するとしても、日本の自衛隊撤退の要因にはなりえない。それは、香田青年は、個(私)であり、自衛隊は公だからである。青年がイラクに入国したのは、公務ではなく、また現地の状況からしてふさわしい態度や行為ではなく、「如何なる危険にも自己責任で対処します」と言わんばかりのスタイルであったからだ。先にNGO活動中の日本人3人が武装集団に拘束され、自衛隊撤退を宣告された際でも、日本政府は屈しなかったではないか。日本国民がいかに私的に行動しようとも止めない(警告はする)代わりに、公とは異なる行為をとるという自覚が大切である。それは結果的に日本のためであっても、政府としての「公」は揺るがせられるものではない。
結:私は私である限り、犠牲を伴う。【2004/11/10/PM】