南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

連載!!「初夏の薫り」(事件は)

Nanjai2004-09-12
 この連載を書き進めるにあたって、約一名の反対を受けているのであるが、これは決して個人的関係を暴きだすような企画ではなく、出会いの背景やそこに潜む闇を筆者なりに考察してみるものである。プライバシーの侵害だとか、興味本位の企画だとか、また個人的な記憶を忘却するための抑制行為だという見解は、甚だ見当違いであるとも言える。
 その趣旨は、あの事件に拠って初めて脳内に浮かび上がる。当時の新聞記事を記してみよう。幸いなことに、凶刃的狂言では6月3日にこの事件を取り上げて、さらに続稿を2,3加えるなど、徹底した関心を示している。《1日午後、長崎県佐世保市東大久保町の同市立大久保小学校の3階学習ルームに6年生の女子児童が大量の血を流して倒れているのを教諭が見つけ、119番 通報した。救急隊や警察官が現場に駆けつけたが、首の右側を深く切られており、死亡が確認された。服に血の付いていた同級生の女子児童(11)に事情を聴 いたところ、カッターナイフで切りつけたことを認めたため、長崎県警は女児を補導し、同日夕、佐世保児童 相談所に通告した。(朝日コム記事一部修正)》第一報と思しき記事である。
 当時の稿では、インターネットでの掲示板やチャットルームの影響を除外し、少女本来の心理感情が元となっているように解いている。あくまでもネットの影響というのは付属品であり、大元の原因を解く鍵にはなりえない、としている。しかし、一方で彼女らの人生観にインターネットの空間的価値観は影響しているはずである。そう考えた筆者は、密かに3日ごろ、新プロジェクトを開設し、当時利用していたチャットルームでのサンプル採集、と称した、チャットでの「人間」探しを開始した。他愛も無い話から、そっと生活の話に持ち込み、どれだけ人間観を失っているか、調べようと思ったのである。
 ちなみに事件から約2週間後に、我がインターネット論を『アマの戯言(6月17日付)』という題で提示しているが、ここには極まった理論は見られない。もっともこの時期は、心理的に正常ではないことは確かであるが、決して早々に持論を正確に築くことが可能な課題ではないことを伺わせる。
結:この事件を機に、チャット利用観は背骨を持った形となった。【2004/09/12/AM】