あまりに残酷な大敗を見せられ、蒲郡線乗り鉄する気力も失せてトボトボと名鉄刈谷市駅方向へ歩きだす。刈谷球場は2度目であり、郷土資料館は試合待ちに訪れたと思う。
その道の先、亀城小学校の片隅に、刈谷藩校文禮館跡の碑が建つ。
旧藩校はよく、現在の高等学校となって存続している。刈谷藩校は明治期に刈谷義校(初等学校)へ転換され、現在の亀城小学校へと繋がっている。刈谷藩第2代藩主の土井利徳が1783年、儒学者を招聘して文禮館をひらいた。
校名は中国の鶡冠子(かつかんし)の言葉「文礼の野しき(いやしき)は禽獣に同じ、則(すなわち)、言語の暴き(あらき)は蠻夷(ばんい)と同じ謂(いわれ)なり」に由来する。
『鶡冠子』の原文を探してみた。
文禮之野,與禽獸同則,言語之暴,與蠻夷同謂。
当時の儒学者、漢学者というのは本当に中国の古文書に精通して、信じられないところから適語を引用してくる。鶡冠子なんて高校世界史でも聞き覚えない。
文禮館跡碑近くの道が、どこか街道っぽい趣きある。調べると、刈谷城と東海道池鯉鮒宿を結ぶ刈谷街道(刈谷道)らしい。
町口門跡は見落とした。刈谷城を通り過ぎて知多半島まで続くとみることもできるらしい(緒川街道)。
やや迂回しながらも、刈谷市駅に辿り着く。御幸町から駅までの道中、電柱に刈谷名物 亀甲かきの広告が目に留まる。柿でも牡蠣でもなく、
おかき(あられ)なんだね。店もすぐそばにあったらしく、覗いてけば良かったな。