南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

中山道 垂井~鵜沼(西濃チャリン行)

もともとチャリ全走のつもりじゃなかった...
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鵜沼から太田、御嵩へ。
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醒井から垂井までと、美濃路をつないだ関ヶ原チャリン行復路。
残すは、垂井から鵜沼。自宅から起点の垂井までは大垣方向へまっすぐ北西進行するのが良いが、これからの時期、北西風が強まる。そこで、まず養老山地に向かって西進し、養老鉄道サイクルトレインを利用して大垣までサボり、垂井までもう一息西進する行程を組んだ。さらに土日をまたいで二日間とし、海津市の立田温泉か垂井に泊まるつもりだった。たまたま先日自転車を整備して、タイヤとチェーンの状態が抜群によく、劣化する前に長距離やっときたいなと。サイクルトレイン使えば一日でも強行できると踏んだ。まだ北西風の弱いギリギリのチャンスと思った。

垂井までの道のり

養老鉄道の電車は土日は終日自転車を積めるが、いかんせん本数が少ない。駒野駅まで2時間と算出されたので、9:15大垣行きに間に合わすべく6時半、の予定が7時出発になった。向かい風よりも路面の悪さ等に悩まされ、景色見る余裕もなくひたすら西進。木曽三川を越える辺りは迫る時間との戦いだった。そんな努力と苦労も空しく、突きつけられた現実は、
まさかの、今日と明日に限って、養老~大垣間のサイクルトレイン中止、だった! (胸中)ふざけんなぁ!
間に合ったはずの電車を見送り、駅前でしばし呆然としていた。ちょうど駒野~大垣間を残してた養老鉄道完乗と、中山道走破の両方を絶たれた。切り替えを模索しつつ、たらたらと養老駅まで走った。養老山地に沿って細かなアップダウンが連続する。天井川のトンネルをくぐった。養老渓谷でイベントがあるらしく、大勢の利用客が臨時バスに乗り換えていた。ようやく決めた。早朝から全力ですっ飛ばしてきただけに、時間には多少余裕がある。大垣市中をバイパスして垂井に行けば、養老鉄道分を埋められるんじゃ、と考えて強行するに至った。朝から全力してるだけに、左脹脛はすでに張ってた。また、タイヤとチェーンは万全だったが、油差してないペダル軸から不快な音が響く。
養老から垂井まではほぼ真北に進むが、思ったより一面田畑の吹きさらしは少なく、向かい風を民家にさえぎられて楽だった。美濃高田では関ヶ原チャリン行1日目のときの道と交叉して懐かしかった。

養老の風景

伸びてくる高架橋は、建設中の東海環状自動車道。ここでもそんなに景色を撮る余裕はなく、メインの中山道へ向けてせっせと北進。すき家国道21号垂井店で11時過ぎに昼飯。

月見すきやき牛丼

中山道(垂井宿~鵜沼宿

一年半ぶりに帰ってきた追分。当時は付近を工事中で、道標を撮れずに美濃路入りした。

美濃路追分

本日の中山道起点となります。やっと逆風から解放される~

美濃国分寺

追分から間もなく、美濃國分寺跡。腹ごなしがてら散策していく。国分寺は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立させた寺院。まだ尾張国三河国も訪れたことない。

美濃国分寺跡

堀に囲まれたほぼ正方形の広大な土地に、各建物の礎石が並んでいる。

中門跡、塔跡、金堂跡、鐘楼跡

現在の美濃国分寺と、大垣市歴史民俗資料館はパス。

赤坂宿

東海道線新垂井支線の前後には大小の古墳が点在する。

粉糠山古墳と、昼飯大塚古墳

とくに昼飯大塚古墳は沿道からも際立つ。人家の疎らな頃は、一里塚のような目印になったろうな。なぜか米絡みの名が目立つ。
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いちおう再訪の赤坂宿、かすかに見覚えのある町屋を見つけた。名の通り、坂道から坂下にかけて宿場町を形成。

赤坂宿の町並み

北に谷汲街道、南に養老街道と交叉する四ツ辻が中心地。

赤坂宿四ツ辻

本陣跡に近い、旧清水家住宅を静かに見学。戦後間もないころの姿や、一部増築するなどして修繕される様子がパネル展示されている。

旧清水家住宅

櫓と白い洋館の建つ、赤坂港跡は明治期に栄えたという。

美江寺宿

赤坂~美江寺は旧道筋が複雑で、サイトと地図アプリを小まめに照合しながら進み、ストレス。小刻みに折れ曲がった道や、堤防上を伝うところなど美濃路を思い出させる。双方向からの案内板を見落とさないように注意する。揖斐川の右岸では、渡河する湊へ寄るために折れ曲がっている箇所がある(呂久の渡し)。岐阜の平地を最も北へ迂回するところで、瑞穂市北方町などの地名を目にして興奮。
美江寺宿は、”「”の形に折れた町を成すコンパクトな宿場。本陣など主要な建物は残らないが、商家らしき面影は点在する。

角地にある美江神社と、同所に設けられた高札場(復元)

14時の小休憩。

河渡宿

長良川の右岸堤防下に位置する、河渡(ごうど)宿。あまりに小規模すぎてウッカリ見落とすところだった。佇まいは美濃路墨俣宿にも似ているが、さらに気配薄。

河渡宿の面影と、一里塚跡

長良川対岸には鏡島(かがしま)湊跡がのこる。河渡橋架橋とともに渡し場の役目を終えたが、もう少し上流に小紅(おべに)の渡しという県道173号線の一部である渡し船が現在も運航している。後述の鏡島弘法と合わせて利用してみる案があった。ここ鏡島へは、1964年まで名鉄鏡島線が通っていた関係で、岐阜バス(元・名鉄バス)が中山道を頻繁に往来する。
今回の道中で一番訪れたかったのが、乙津(おっしん)寺(鏡島弘法)。738年(天平10年)に行基が草庵を築き、814年(弘仁5年)に空海が寺を建立したという。
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乙津寺(鏡島弘法)

金箔が神々しい弘法様を拝む。境内の裏手にあるという、小紅の渡し乗船場は見に行かず。

加納宿鵜沼宿

岐阜市中心部は区画整理が進んだものの、街道筋は大崩れせずよく残っている。ただ、JR岐阜駅に近づくにつれ、界隈の面影は消えてゆく。
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このときは本陣跡などの味気なさにガッカリしたが、見方変えれば鮎鮓街道沿いには十分雰囲気残ってる。

加納宿番所跡付近(鮎鮓街道

また、名鉄茶所駅から手力雄神社二の鳥居に至るまでずっと、古い町家が断続的に残っている。上記事の名鉄線移動分をつないだわけだけど、中山道岐阜城下から手力雄神社までの参道を兼ねているのかなと。鳥居前の枡形を経ると、急に街はずれの装いに。

間の宿 加納宿

今回、存在を確かめたかった新加納宿加納宿から鵜沼宿までは約18㎞と距離が長く、間の宿が設けられた。名鉄各務原線の新加納駅名古屋本線加納駅に対する「新-加納」ではなくて、新加納宿最寄りの駅。さきの河渡宿くらいかと思えば、意外と史跡がある。

加納宿立場跡と、一里塚跡

ローソン各務原西那加店で最後の休憩をとり、鵜沼宿めざして一路ひた走る。国道21号線の鉄道跨線橋では車道と完全分離した歩道橋を階段で持ち上げねばならず、煩わしい。轟音の脇を爆走しながら、恵みの湯はどこだっけかと考えたりした。
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ようやくR21を離脱すると間もなく、見覚えのある沿道に。
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鵜沼付近のアップダウンが加納まで続くものだと勝手に想像してたが、この辺限定だった。足元薄暗く、懐かしみつつゴールを急ぐ。

うとう峠道標

旅の結びは、やはりここでしょう。つごう三度訪れた中山道の要所。さぁ、帰ろう。

帰途

夕暮れだからとにかく分かりやすい道をと、旧国道41号線(県道27号)をまっすぐ南進。暗くて路面が不確かなのは神経使う。中山道を約4時間半と見込んだので、ここも十分明るいうちに走れる想定だった。養老サイクルトレイン分の自走が響いた。それでも追い風が背中を押し、犬山橋~楽田辺りまで信じられないくらい快走した。まるで100㎞以上走った後とは思えぬほど疲労を感じず、何かに憑かれたかのように軽やかに脚が回った。たぶん今日の最高速度が出たんじゃないかと。小牧からは路肩に細心の注意を払って走行。19時帰着。
休憩時間をふくめ、12時間の激走となりました。下の走行距離をみても、サイクルトレインを逸して相当無茶したなと。体育の日を前に、腹出てきたからちょっと運動しとこうと軽い気持ちで発ったにしては頑張りすぎた。一息ついてみれば顔面薄焼け、両脚とも軽い筋肉痛。イケイケで完遂しちゃうけど、適量が大事。
ともかく、徒歩とチャリでゆく中山道は、大湫宿(47番目)から鳥居本宿(63番目)まで一本につながった。無茶はしたけど、この達成感はデカい。今後、木曽路を埋めてゆくともう少し伸ばせる。関ヶ原越えたから、中山道伝いに京へ上ることもできる。まだまだ街道は可能性を秘めてる。

本日の実質走行距離:122.55㎞(距離測定マップにてルートを正確に測定)