南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

新春遠鉄ぶらり旅 2:磐田・秋葉神社

新春遠鉄ぶらり旅 1:浜松よりつづく)
7時起床、即モーニングサービスへ。それなりの朝食を勝手に期待するも、パン、ヨーグルトとコーヒーのみで無料とはいえ拍子抜け。何か口にできるだけ活力になって有難いか。ほかに特筆することもないけど、やはり光明石の温泉は素晴らしかったな。

遠州鉄道線と遠鉄バス

スケジュールより早く進行した昨日と反し、今朝は初っ端からやらかした。最寄りの美薗中央公園駅までは徒歩4分。出発直前にウレタンマスクの紛失に気づき、辺りを探してチェックアウトが遅れた。ホテルを出た瞬間、ちょうど電車の発車時刻なのに気づき蒼白。今日は緻密なバス乗継が物言う行程、もう一日終わったと思った。次発は12分後、新浜松駅からバスターミナルに移動する時間をとれない。頭真っ白で呆然としながら、闇雲に行程をシャッフルし始めた。その時ふと、遠州鉄道線と乗り継ぐバス路線の重なる区間はないかと調べた。すると、新浜松直前の第一通り駅と、広小路バス停を徒歩3分で接続できる可能性が判明。何とか予定のバスに乗れるかも!普段から工夫を癖でやってると機転で窮地を救われるね。
通勤客の乗降が目立つ中、時刻表どおり正確に着いてくれと祈った。1分違わず第一通り駅に着き、方向感覚も危ういまま小走りに広小路バス停を目指した。幸い、バスは3分ほど遅れており余裕だった。朝のバタバタは一件落着。
さて、乗車したのは遠鉄バス80中ノ町磐田線JR東海道線に並行して磐田駅を経由し、見付へと至る。時間を要するとはいえ、JR運賃を削れるのは有難い。この路線、途中の中ノ町までは遠州鉄道*1中ノ町線廃線跡(1909-1937)と重なる。軌道線(路面電車)のため痕跡は残っていない。中ノ町は天竜川の右岸に位置し、東海道の渡船場(交通の要所)だったと思われるので短命とはいえ鉄道要求は解せる。バスも時間調整のため中ノ町で数分停車する。

バス停の真ん前に一里塚を発見。旧東海道を辿っていることがわかる。さきの中ノ町線も、東海道の松並木を黒煙あげながら列車が走り、火の粉をまき散らすことから沿線住民による廃線運動が起こったという。
磐田市中心部が台地の上に造られていることが、バスに乗っていてもよく分かる。JR磐田駅は台地の下にあり、東海道を外れていったん下ったバスは駅を経由すると再び緩やかに上ってゆく。磐田駅前には大楠と、赤褌締めた白いワンコ*2の像が見えた。

磐田

浜松からほぼ1時間、磐田市役所にて下車。
現在、静岡県西部エリアの中心都市は浜松だが、かつて遠江国の中心は磐田であった。広大な敷地に遺構の残る、遠江国分寺跡。目下、金堂の基礎部分を復元工事中である。

遠江国分寺跡

この広大な風景、最近見たばかりだなぁ(中山道 垂井~鵜沼(西濃チャリン行) - 南蛇井総本氣での美濃国分寺跡)。

自然石の礎石が残る塔跡
土塁状の高まりを成す築地塀

国分寺と対をなすように建つ、八幡宮遠江國府宮)。

八幡宮(大鳥居と楼門)

巫女さんたちが境内を掃き清め、”はちまんだんご”を販売している。パック売りらしいお団子はちょっとだけ気になった。

府八幡宮(ふはちまんぐう)|静岡県磐田市中泉
境内の東方にある万葉歌碑遠江国守に赴任した桜井王が聖武天皇への思いを詠んだ歌と、その返歌。奈良時代の都からみた遠江国なんて結構辺境だろうから、想いは痛烈であろうよ。
真北へ進むと東海道へ合流する。この辺りは見付宿跡だが、面影は非常に乏しい。

脇本陣三河屋門と、建物に載せていた鬼瓦やイギリス積み煉瓦

見付天神の下まで宿場町は延びていたというから、もっと東に史跡があるかもしれない。

淡海國玉神社遠江国総社)

本陣跡に近接する神社。総社には一帯の神様が集めて祀られ、各地の寺巡回を省くことができる。この総社の隣に建つのが、磐田で一番訪れたかった旧見付学校だ。

見付学校

明治5年の学制発布より間もなく建てられた、近代最初期の学校。以前訪れたことのある、松本の開智学校もその一つ。明治8年の建設当初は二階建てに二層の楼を載せた造りで、明治16年に三階部分を増築して五階建てとなる。基礎の石垣は遠州横須賀城のものといわれる。内部は左右で男女別に分かれている。開学当時の小学校の教室や学校生活、日常を再現したり、学校設立や建築、その後の変遷などを展示している。

当時の教室風景と、楼上で打ち鳴らされていた太鼓

形状だけ見ると何故か現在のタブレットにも重なる、石板と石筆。太鼓は、酒井忠次が家康の窮地を救ったと伝えられ、開校を祝して寄贈されたという。

増築された3階部分から、塔屋まで貫通する柱

農機具などが陳列された三階部分の天井は低い。四階は校長室だったとされる。

見付学校の鼓楼

石垣も含めると6階建てほどの視界は、今でも十分見晴らしよい。また、校舎裏手には幕末の国学者、大久保忠尚が創設した磐田文庫(復元)がある。見付学校の設立や運営に携わった町の有力者の多くが、忠尚の門下生だという。

見付宿の西端とおぼしき、西坂の梅塚。ここで東海道姫街道が分岐する。坂道は、宿場町が小高いところの立地を意味する。この通り、旧東海道であるとともに栄光への道とも名づけられている。磐田市出身で東京2020オリンピック金メダリストの水谷隼伊藤美誠両選手の功績を称えるため、とあった。
さて、浜松餃子は食べそびれたけど、一つくらい当地の名物を味わいたい。目をつけたのが、磐田市のB級グルメ、おもろカレー。”おもろ”とは、豚足のこと。豚足を砂糖と醤油で甘辛く煮込んだ磐田市の郷土料理だという。
gotouchi-i.jp
提供しているお店のうち、観光ルートと移動の都合から味匠天宏を選ぶ。HPで提供を確認できるのも決め手。見付宿のはずれからバス2区分ほど歩くと、やや小高いとこに料亭がある。予約制の本館に近接する別館「椿」、天井の高い古民家風の造りに広々した座敷は落ち着いたムードとともに、少し高級感も漂う。11時開店のところを11時半に入店したが、一通り満席になる直前で辛くも待ちを免れた。テーブル席で、迷わずおもろカレーを所望。

おもろカレー

こちらでは注目のおもろをはじめ、3種のカレーをセットにしている。おもろは右手前の一皿。左手前は季節の地元野菜を用いた一般的なカレー、そして天ぷらの名店といわれる天宏さんならではのかき揚げカレーと、三色を一度に味わえる贅沢な御膳。口の中でとろける豚足、特徴的な煮込み味はカレーにかき消されたか。カツカレーこそあるけど、かき揚げ天丼のカレーは初めて。サクサクの食感素晴らしいかき揚げとカレーライスがまた絶妙。カレールウ自体の辛さは控えめで、おもろや天ぷらを味わいやすい。三色各々は少なく見えるが、平らげるとすっかり満腹に。ごちそうさまでした。
食後のひととき、隣接する旧赤松家記念館を見学。

旧赤松家記念館

近代日本造船技術の先駆者で、明治期に磐田原台地に茶園を開拓した赤松則良の邸宅跡。長崎海軍伝習所にて航海術などを学び、遣米使節団に随行して勝海舟らとともに咸臨丸で渡米、幕末にはオランダへ留学した。帰国後は、造船技術者として明治時代の海軍整備に尽力した。じつはさきのおもろカレーとも関係があり、郷土料理のおもろにカレーを取り合わせたのも、日本でいち早くカレーを食べた海軍で中将だった赤松則良氏が、磐田ゆかりの人物だからだそうな。
史料を見学していると、記念品にと本のしおりを選ばせていただいた。磐田のゆるキャラしっぺいちゃんの付いたのを頂く。

天竜区

浜松市は今年1月1日より行政区が再編され、中心部と浜北の6区が2区にまとめられたが天竜区だけは変わらない。
赤松家記念館前の河原町北より、遠鉄バス30磐田天竜で二俣方面へ。そいえば、さっき赤松家内のジオラマに線路が敷いてあったり土蔵内の絵に電車が描かれてたな。調べてみると、光明電気鉄道が中泉(現・磐田)から二俣町までを結んでいたことらしい(1930-36)。相当な経営難で短命に終わり、廃線許可を前に車両が売却されるという悲惨さだったらしい。遠州鉄道とは一切関係ないが、30磐田天竜線はちょうど同じ区間を辿っており廃線跡めぐりだな。終点山東の近くで光明山口バス停を通り、光明ってここまでの延伸を目指していたのか、と。
バスはずっと丘陵に沿って北上。途中、ららぽーと磐田を経由するために擦れ違い困難なヘアピンカーブを往復する。天竜浜名湖鉄道天竜二俣駅に置かれたSLをチラ見、今回もまた転車台ツアーはお預けだ。
車庫を併設する山東での秋葉線乗継は約20分、遠鉄ストアで買い物して乗車場所の時刻表を見ると秋葉線がない! 国道362号から車庫に乗り入れてくるなんて不自然だと思ったんだ。慌てて本線上のバス停探して右往左往するうちに、該当のバスが来た。山東交差点はY字になっていてバスは方向指示器を灯さない。左なら一旦車庫に入るし、右なら完全に逸する、一か八か。バスは車庫で転回した。追いかけて再び乗車場所に行くと、何のことはない、裏面にちゃんと時刻表があった。
秋葉線はいよいよ天竜区を山奥深く進んでいく。てっきり天竜川を遡るのだと思っていたけど、すっかり外れる。途中トンネルを避けるなどして、只来(ただらい)と横川の2集落を寄っていく。バスが貴重な交通手段であると同時に、国道が寸断されたら正に孤立してしまうなと。

秋葉神社

秋葉山本宮秋葉神社
秋葉山は火の神様、と母に言われるまで知らなかった。全国各地に点在する秋葉大権現(火防・火伏せの神)の本山の一つ。正月三が日火の禍が続いている*3ので、お鎮めいただくよう祈念する。秋葉山山頂にある上社と、山麓の下社がある。

秋葉神社下社

境内は丈の高い樹々に囲まれ、神聖な気配を漂わせている。初詣客も一段落して疎ら、落ち着いて参拝できる。参道脇の門前屋には、ようかんなどの和菓子や地元春野の茶葉がガラス越しに見える。土産を買っていこうか、暫し迷う。
山頂の上社までは徒歩で片道1時間半かかるという。とてもバスの時刻に間に合わない。しかし時間は余ってしまうので、別のウォーキングコースを用意した。
harunokankou2.hamazo.tv
おなじみの戦国史ゲームで、今川氏に従属する犬居天野氏の居城、犬居城址。標高290mに位置する山城で、見晴らしも良いらしい。全長で所要2時間のところ、ショートコースで登ってすみれロード沿いでバスに乗れば1時間程度に短縮できそう。

天竜川と思ってた、気田川

春野ふれあい公園からの登り口が分かりにくく、パターゴルフ場と交錯した。登り口は倒木などで道筋が荒れていた。ショートコースだと舐めていたら、物凄い急登だった。丸木の細かな階段を登るうち、あっという間に息切れ。昨日の奥山線跡と同様、大汗かきながら上り詰める。ロングコースに合流すると若干緩やかになる。頂へ近づくにつれ、足場の悪い箇所も。一つフェイントの谷を挟んで山頂へ。

尾根の途中と、山頂からの眺望


鐘打山の山頂には展望台が設けられている。気田川のくねりと、山々に囲まれた犬居の集落が見下ろせる。犬居城は、この山頂に置かれた物見曲輪から東側へ、いくつかの曲輪が築かれていたという。少し時間が押してしまい、東側の路面状況が読めないことから、もと来た道を折り返すことにする。曲輪跡を見られないのは惜しい。騎馬のように駆け下り、バスにちょうど間に合う。到底バスの都合つかないけど、上流の春野にあるすみれの湯で汗流したいところだな。

帰途

ここまで乗った遠鉄バスは皆、定刻より3分ほど遅れて運行している。鉄道との接続がやや気にかかるところ。山東でも時間調整に停車し、ヤキモキさせるも珍しく定刻通り西鹿島駅に着いた。同駅では入線した電車がそのまま折り返すため、到着するまで改札を行わない。新浜松からの客降車後、電車の停車位置を数メートルずらして開扉。「一旦ドアを閉めます」のアナウンスだと思ったのに、そのまま発車してビックリした。
新浜松駅からバスターミナルへの移動区間が、唯一のお土産購入チャンス。制限時間は16分。遠鉄百貨店新館地下1階、浜松土産らしくない和洋菓子店街を彷徨い、結局うなぎパイで有名な春華堂に行き着くと衝動でうなぎサブレを買い求めた。乗継はピッタリ。
さて、このままJRに乗れば早くて済むところをフリー乗車券を最大限活用するため、東海道線と被る舞阪駅までバスで行く(遠鉄バス20志都呂宇布見線)。JR運賃を170円浮かすことができる。計画当初の時点では、10浜名線が鷲津駅まで及んでおり(2021年10月1日廃止)、区間は縮んでしまうもアイディア自体は諦めない。崖下のような窮屈な県道(雄踏街道というらしい)を縫いながら、退勤客らを捌いていく。すっかり真っ暗だけど、伊場遺跡とか気になる箇所あり。そいえば静大に進学した高校の友人は、この辺りが生活圏だったのかな。イオンモール浜松志都呂店へ入場するなど焦りを覚えさせるも、7分のJR接続に対し3分ほど遅れて着き、まぁセーフ。さっき秋葉神社でバスに乗ってきた東南アジア風のバックパッカー3人組、そのまま遠州鉄道線も乗り合わせたが舞阪駅で乗ったJR電車にも居たのには驚き。浜松駅から舞阪までバスで40分ほど要しており、その間豊橋方面の電車は2本くらいあるはずだが何故同じ電車に?
この二日間、天竜浜名湖鉄道沿線とはまた別の、遠江国に対する見聞が深まった。なかなか成就できない、天竜二俣駅転車台ツアー・袋井たまごふわふわ・御厨古墳群の3点を目指し、今後も機を見ては訪れていく。

*1:前身の遠州電気鉄道

*2:磐田市ゆるキャラ”しっぺい”

*3:輪島朝市通りの火災、羽田空港事故、小倉商店街火災