南蛇井総本氣

南蛇井にとらわれた言語的表現の場

8月15日を命名する

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 今日は何の日であるか、ご存じない方も多いであろう。今や、過去の戦争を身を以て知るものは数少ない。したがって、歴史を学習しても脳裏に残さない者が現在増加している。いや身を以て体験したものですら、過去の戦争を正当に命名した者は、非常に少ない。そのために認識の甘い戦争観が戦後形成され、論議を長々と続けている。
 終戦記念日、あるいは敗戦記念日
 一般には、そう呼ばれている。後者から前者への移行が、政治的な意図と曖昧な戦争観によってなされた。筆者は、他にも停戦確定日とか降伏受諾日とか多様に考えてみたが、ほとんどの場合、戦争の「戦」の字を欠くことができない。なぜ戦、なのか。
 筆者思うに、戦、とは、勢力がたたかうことである。近代の戦争は、国民を総動員し、大量破壊兵器の開発によって、騎馬の一騎打ちではなく、一般市民の大量殺戮を含む、勢力同士のたたかいへと変わった。第一次世界大戦を機に、国際連盟が作られ、世界は国を一単位(個)とする社会へと変貌しつつあった。したがって、国と国同士のたたかいは、闘、ではなかろうか。翻って、日本は当初、同じ西欧の被害者国家である植民地化された東南アジア諸国に味方し、帝国主義の打倒に力を注いだ。このときの日本は東亜総出のたたかいであるから、戦、の字に値するであろう。しかし、日本は戦局の悪化も伴い、しだいに東亜での優越感を強めることで自己を保身するのに、陶酔していく。このとき自らの国家も、帝国主義への道を歩む地雷を踏んでいたことに、政府は気付いていなかった。いや、我々も気付いてはいない。このたたかいには正当な時間と誤った時間が流れていることを、誰も自覚しない。ともかく、日本はいつのまにか、自国一人で米国と闘うことに陶酔していった。それはなんら不思議ではなく、わずか1世紀前まで闘の社会だったのだから、その精神に回帰したのである。これが大東亜戦争の過程である、と筆者は考える。一部のみを見れば、戦であるか闘であるか認識できない。戦を選択したのは、たたかいの正当化意識からではなく、語呂であろう。
 主題を忘れていた。命名であるが、やはり語呂の感から言って、戦の字は捨てきれない。また歴史的にみて、一時はともに戦い、ともに勝利を分かち合った東亜諸国のために、戦の字を残すべきである。しかし大衆動員戦争は繰り返すべきではない。
結:終戦祈念日。【2004/08/15/PM】